かいこん ほこら
悔恨の小祠
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それから数日後、仰木家の玄関チャイムが鳴った。
「おにいちゃーん、おねがーい」
「はいはい」
夕食当番で忙しそうにしている美弥に言われてインターホンの受話器を取る。
『お届けものでーす』
玄関の扉を開けて、女性の配達員に渡されたのはラッピングされた大きな箱だった。
言われるままハンコを押し、差出人を確認してギョッとなった。
「げぇ……っ!」
直江からだ。しかも宛名は美弥となっている。
ありがとうございましたーっ、と去っていく配達員を見送ってから、このままどこかにやってしまってなかったことにしようか、などと迷っていると、廊下に美弥が顔を出した。
「誰だった?あれ、なんの荷物?」
目を丸くして美弥は覗き込んでくる。
見られてしまったからにはしょうがない。渋々、箱を渡した。
「わ、直江さんからだっ♪なんだろ……うわあぁ~~♪きれい、きれい♪すごいよ、おにーちゃん!!」
中には色とりどりの花で作られた大きな花束が収まっていた。
「すごいよ!!美弥、男の人からお花もらったの初めてだよ~♪♪」
「こ、こら、美弥!そんなにはしゃぐのはやめなさい!」
浮かれる美弥を必死に諌めていると、まるでその様子を見ていたかのようなタイミングで電話が鳴った。
なんだか嫌な予感がしてダッシュで受話器を取る。
『そろそろ届いた頃かと思いまして』
花束の贈り主は開口一番そう言った。
「何なんだよっ、あの花っ!」
『綺麗でしょう。"アネモネ"というんですよ』
「そんなこと聞いてるんじゃねえよ!大体、なんで美弥宛てなんだよっ!」
『あなた宛てにするとさっさと捨てられてしまうと思ったからです。何ですか、妬いてるんですか』
「誰がっ……誰にだよっ!」
美弥が、かわってかわってと隣で騒いでいる。
その声が聞こえたのか、喜んでもらえたら嬉しい、と直江が伝えてきたが、高耶は大事な妹を男の毒牙にかけたくないとばかりに、あっちに行ってなさい、と追い払った。
美弥は頬を膨らませながら夕食の支度に戻っていく。
落ち着いたところを見計らって、直江は喋り始めた。
『アネモネの花ことばを知っていますか?』
「花ことば?」
『ええ。白いアネモネには"真心"という意味があるそうなんです』
直江ははる香に聞いたのだと言った。
『その話がどうしても気になって、色々と調べてみたんです。
アネモネの代表的な花ことばは、叶わない期待や希望、一時的な愛情といったものらしいんですが、確かに白いアネモネには"真実の心"という意味も込められているようですね』
「へぇ……」
正直、花は好きでも、花ことばなどは気にしたこともない高耶は、微妙な相槌しか打てなかった。
しかし直江は気にしない風に後を続ける。
『私は"アネモネ"という名前の語源がギリシャ語の"風"にあり、咲き終わった後すぐに風に散ってしまうところに由来している、というのを何かで読んだことがあったんです。随分とさみしい名前だと思っていました。ところが、綿毛のついた種子を風によって飛散させるところからついた、という説の方が有力みたいなんですね』
花の存在自体を始めて知ったような高耶にはちょっと想像しにくかったが、脳裏にはタンポポの白い綿毛が浮かんでいた。
『私はそれが、まるで種子が人の"真実の心"を運んでくれているようだと思いました。辿り着いた先で、また新たな芽を出して花を咲かせる』
そしてその花が散ればまた新たな場所を目指して、風にのる。
花が散って全てが終わり、ではないのだ。種子と共に人の心が永久にサイクルし続ける。
それはアネモネの話だけにとどまらず、生命の全てにいえることかもしれない。
『そう思うと決してさみしいものではないと思いませんか』
高耶は浩二や町田の姿を思い浮かべた。自分が彼らから貰った想い。自分が彼らに託した想い。
それは、悲しいものではなく、希望のあるものになっただろうか。
「そうだな……」
素直に相槌を打ってしまった後で、なんだかロマンチック過ぎてまるで恋人同士の会話のようだと思った。
慌てて話題を他に振る。
「そ、そういや昨日、留美子さんに電話しといた」
『ああ、浩二さんのこと、報告したんですね。どうでした?』
「………泣いてたよ」
直江が留美子に報告する予定だったのだが、高耶が浩二に約束したのは自分だから、どうしても自分で話したいと言うので任せてあったのだ。
「想い続けるって気持ちには変わりがないってさ。浩二さんとの夢は決して忘れるつもりはないって。けど、ちゃんと新しい夢も探すようにするって言ってた」
『そうですか……。道男さんの想いが報われるといいですね』
「ああ……」
泣いてはいたものの留美子の声はしっかりしていて、高耶は安心したのだ。
ひとつ間違えば留美子も町田と同じように、変えることの出来ない過去に囚われてしまっていたかもしれない。
浩二のお陰で留美子は救われた。きっと彼女は道男と新たな夢をみることが出来るだろう。
『私も昨日、はる香さんに報告をしたんですが、その際にちょっと妙な話を聞きまして………』
「なんだよ、今度はキツネでもでたか?」
『それがですね………』
はる香から聞いた話は驚くべきものだった。
「おにいちゃーん、おねがーい」
「はいはい」
夕食当番で忙しそうにしている美弥に言われてインターホンの受話器を取る。
『お届けものでーす』
玄関の扉を開けて、女性の配達員に渡されたのはラッピングされた大きな箱だった。
言われるままハンコを押し、差出人を確認してギョッとなった。
「げぇ……っ!」
直江からだ。しかも宛名は美弥となっている。
ありがとうございましたーっ、と去っていく配達員を見送ってから、このままどこかにやってしまってなかったことにしようか、などと迷っていると、廊下に美弥が顔を出した。
「誰だった?あれ、なんの荷物?」
目を丸くして美弥は覗き込んでくる。
見られてしまったからにはしょうがない。渋々、箱を渡した。
「わ、直江さんからだっ♪なんだろ……うわあぁ~~♪きれい、きれい♪すごいよ、おにーちゃん!!」
中には色とりどりの花で作られた大きな花束が収まっていた。
「すごいよ!!美弥、男の人からお花もらったの初めてだよ~♪♪」
「こ、こら、美弥!そんなにはしゃぐのはやめなさい!」
浮かれる美弥を必死に諌めていると、まるでその様子を見ていたかのようなタイミングで電話が鳴った。
なんだか嫌な予感がしてダッシュで受話器を取る。
『そろそろ届いた頃かと思いまして』
花束の贈り主は開口一番そう言った。
「何なんだよっ、あの花っ!」
『綺麗でしょう。"アネモネ"というんですよ』
「そんなこと聞いてるんじゃねえよ!大体、なんで美弥宛てなんだよっ!」
『あなた宛てにするとさっさと捨てられてしまうと思ったからです。何ですか、妬いてるんですか』
「誰がっ……誰にだよっ!」
美弥が、かわってかわってと隣で騒いでいる。
その声が聞こえたのか、喜んでもらえたら嬉しい、と直江が伝えてきたが、高耶は大事な妹を男の毒牙にかけたくないとばかりに、あっちに行ってなさい、と追い払った。
美弥は頬を膨らませながら夕食の支度に戻っていく。
落ち着いたところを見計らって、直江は喋り始めた。
『アネモネの花ことばを知っていますか?』
「花ことば?」
『ええ。白いアネモネには"真心"という意味があるそうなんです』
直江ははる香に聞いたのだと言った。
『その話がどうしても気になって、色々と調べてみたんです。
アネモネの代表的な花ことばは、叶わない期待や希望、一時的な愛情といったものらしいんですが、確かに白いアネモネには"真実の心"という意味も込められているようですね』
「へぇ……」
正直、花は好きでも、花ことばなどは気にしたこともない高耶は、微妙な相槌しか打てなかった。
しかし直江は気にしない風に後を続ける。
『私は"アネモネ"という名前の語源がギリシャ語の"風"にあり、咲き終わった後すぐに風に散ってしまうところに由来している、というのを何かで読んだことがあったんです。随分とさみしい名前だと思っていました。ところが、綿毛のついた種子を風によって飛散させるところからついた、という説の方が有力みたいなんですね』
花の存在自体を始めて知ったような高耶にはちょっと想像しにくかったが、脳裏にはタンポポの白い綿毛が浮かんでいた。
『私はそれが、まるで種子が人の"真実の心"を運んでくれているようだと思いました。辿り着いた先で、また新たな芽を出して花を咲かせる』
そしてその花が散ればまた新たな場所を目指して、風にのる。
花が散って全てが終わり、ではないのだ。種子と共に人の心が永久にサイクルし続ける。
それはアネモネの話だけにとどまらず、生命の全てにいえることかもしれない。
『そう思うと決してさみしいものではないと思いませんか』
高耶は浩二や町田の姿を思い浮かべた。自分が彼らから貰った想い。自分が彼らに託した想い。
それは、悲しいものではなく、希望のあるものになっただろうか。
「そうだな……」
素直に相槌を打ってしまった後で、なんだかロマンチック過ぎてまるで恋人同士の会話のようだと思った。
慌てて話題を他に振る。
「そ、そういや昨日、留美子さんに電話しといた」
『ああ、浩二さんのこと、報告したんですね。どうでした?』
「………泣いてたよ」
直江が留美子に報告する予定だったのだが、高耶が浩二に約束したのは自分だから、どうしても自分で話したいと言うので任せてあったのだ。
「想い続けるって気持ちには変わりがないってさ。浩二さんとの夢は決して忘れるつもりはないって。けど、ちゃんと新しい夢も探すようにするって言ってた」
『そうですか……。道男さんの想いが報われるといいですね』
「ああ……」
泣いてはいたものの留美子の声はしっかりしていて、高耶は安心したのだ。
ひとつ間違えば留美子も町田と同じように、変えることの出来ない過去に囚われてしまっていたかもしれない。
浩二のお陰で留美子は救われた。きっと彼女は道男と新たな夢をみることが出来るだろう。
『私も昨日、はる香さんに報告をしたんですが、その際にちょっと妙な話を聞きまして………』
「なんだよ、今度はキツネでもでたか?」
『それがですね………』
はる香から聞いた話は驚くべきものだった。
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なんと、今回の事件の発端となった例の五年前の玉突き事故の加害者が、自死を図ったというのである。
その男は刑務所にて服役中だったのだが、使用しているシーツを裂いたもので首を括っていたそうだ。
しかも話はそれだけでは終わらない。
加害者の遺体やその周囲は、成分のよくわからない粘液のようなもので汚れていたという。
男が死ぬ直前に話をした刑務官は、タヌキがどうのこうのと言っているのを聞いたそうだ。
過去、裁判において全く反省の色をみせなかった加害者の、突然の自殺。
今のところ遺書も見つかっていない。
「そ、それって……」
『ええ、ちょっと不可解でしょう?』
不可解どころの話ではないと高耶は思うのだが、直江は今後、自殺者が出ないよう様子をみるだけで、詳しく調査するつもりはないらしい。
「いいのかよ」
『ええ。たぶんもう、何も起きないでしょうから』
やはり"御狸様"はあの林にいて、町田の願いを叶えたのではないかと直江は思っているらしい。
だとしたら、加害者の命が消えた時点で復讐は成ったのだから、今後被害者が出ることはないだろう。
問題は、加害者の自殺を町田のせいだと考えたはる香が、相当ショックを受けているということだ。
そんなこと自分は全く望んでいなかった、加害者にも罪の重さを噛みしめながら寿命を全うして欲しかった、と泣いていたという。
『彼女とは、しばらく連絡を取り合うつもりでいます』
「そっか……」
『そういえば、あなたにありがとうと伝えて欲しいと仰ってました』
夫の最期の時に、高耶が言ったという台詞を聞いて、驚いていたそうだ。
はる香は確かに夫にもっと生きていて欲しかったし、お互いの心の穴を埋め合いたいと思っていたから、それを伝えてくれた高耶にとても感謝している、と。
「感謝なんて……」
自分ははる香に大しては一切何もしていない。たぶんこの先も、これ以上してあげられることはない。
しかも、唯一はる香の心に必要だった人間を、あの世へ送ったのは自分だというのに。
今更、町田を恨めしく思った。
「息子や孫に置いていかれて苦しんだ人間が、一番大事な人を置いてっちゃ駄目だよな……」
その言葉に電話の向こうで直江も黙り込む。
「人の苦しみも、《調伏》してあげられればいいのにな」
『高耶さん……』
直江はすぐに、しかも迷いなく答えた。
『大丈夫ですよ、高耶さん。はる香さんは死者達とは違う。何せ命があるのですから。生きている限り人は前に進めます。悲しみを乗り越える術をきっと手に入れる。彼女の痛みが永遠に続くことは絶対にありません。いつか必ず、癒される日が来る。必ず、報われる日が来る。私はそう信じています』
「直江……」
それはとてもよく解る。けれど、はる香に何もしてやれない自分がものすごく不甲斐なく感じる。
自分は相手が死者で無いと、役に立たないチカラしか持ち合わせていない。
そう言うと、直江は諭すように言った。
『以前にも言いましたが、私達に出来ることは、極力新たな痛みを生まないようにすることです』
「そうだな……」
前に直江が言ったその言葉は、間違いなく高耶の中に息づいている。
だから町田に対してあんな風に言えたのだ。
直江と言葉を交わしていれば、はる香もきっと前を向ける日が来るだろう。言葉の中に誠実さを宿している男なのだ。
と、そこまで考えて、高耶は思わず赤面した。
心の中だけのこととはいえ、一瞬でも考えてしまった事がとても気恥ずかしくて、茶化したくなった。
「当然、お前が事故なんて起こしたらシャレにもなんねーんだからな。常に安全運転を心がけろよ」
偉そうに言った後で、しまったと思った。
事故ったあなたに言われたくない、なんて嫌味な返事が頭に浮かんで、思わず身構えたが、
『そうしたらまた、誘われてくれますか』
囁くように、そう言われた。
電話の向こうの直江の笑顔が眼に浮かんで、思わず高耶はげんなりした。
「だから、野郎相手に何言ってんだよっ!」
そう言うと、らしくないほどの笑い声が電話口から聞こえてきた。
「電話代がもったいねーから切るぞ!」
受話器に向かって怒鳴っていると、美弥の顔が台所から覗く。
「おにいちゃーん、ごはんできたよー」
「わかった、今行く」
まだ笑っている直江にもう一度怒ってから電話を切った。
「随分楽しそうだったね?美弥のこと、何か言ってた?」
「楽しくなんかねーっつーの。美弥、いいからあんな男のことはさっさと忘れなさい」
といいつつ、直江が喜んでもらえれば、と言っていた事を伝えてやる。
満面の笑みでこちらにやってきた美弥の姿をみて、ふっと気がついた。
突然に訪れる別れ。
美弥が突然事故にあう可能性がないとはいいきれないのだ。
もしくは自分が何かで命を落とす可能性もある。
美弥の頭に手をのせると、なあに、とまるで恋人に甘えるように高耶の体に抱きついてきた。
(オレは、案外幸せな人間なのかもしれないな)
決して恵まれた境遇ではないと思っていたが。
高耶も美弥の肩に手を回すと、美弥はうれしそうににこっと笑った。
この笑顔をみると、自分の大切なものが何なのか、再確認できる。
「腹、減ったな」
「うん♪今日はしょうが焼きだよ!」
世界は広い。
高耶は直江達との出会いを通じて、少しずつ自分の世界を広げ始めているが、それでもまだ知らないことが山ほどある。
今更のように気付いた日常の幸福をかみ締めて、暖かな湯気の立ち上る食卓へと向かった。
□ 終わり □
その男は刑務所にて服役中だったのだが、使用しているシーツを裂いたもので首を括っていたそうだ。
しかも話はそれだけでは終わらない。
加害者の遺体やその周囲は、成分のよくわからない粘液のようなもので汚れていたという。
男が死ぬ直前に話をした刑務官は、タヌキがどうのこうのと言っているのを聞いたそうだ。
過去、裁判において全く反省の色をみせなかった加害者の、突然の自殺。
今のところ遺書も見つかっていない。
「そ、それって……」
『ええ、ちょっと不可解でしょう?』
不可解どころの話ではないと高耶は思うのだが、直江は今後、自殺者が出ないよう様子をみるだけで、詳しく調査するつもりはないらしい。
「いいのかよ」
『ええ。たぶんもう、何も起きないでしょうから』
やはり"御狸様"はあの林にいて、町田の願いを叶えたのではないかと直江は思っているらしい。
だとしたら、加害者の命が消えた時点で復讐は成ったのだから、今後被害者が出ることはないだろう。
問題は、加害者の自殺を町田のせいだと考えたはる香が、相当ショックを受けているということだ。
そんなこと自分は全く望んでいなかった、加害者にも罪の重さを噛みしめながら寿命を全うして欲しかった、と泣いていたという。
『彼女とは、しばらく連絡を取り合うつもりでいます』
「そっか……」
『そういえば、あなたにありがとうと伝えて欲しいと仰ってました』
夫の最期の時に、高耶が言ったという台詞を聞いて、驚いていたそうだ。
はる香は確かに夫にもっと生きていて欲しかったし、お互いの心の穴を埋め合いたいと思っていたから、それを伝えてくれた高耶にとても感謝している、と。
「感謝なんて……」
自分ははる香に大しては一切何もしていない。たぶんこの先も、これ以上してあげられることはない。
しかも、唯一はる香の心に必要だった人間を、あの世へ送ったのは自分だというのに。
今更、町田を恨めしく思った。
「息子や孫に置いていかれて苦しんだ人間が、一番大事な人を置いてっちゃ駄目だよな……」
その言葉に電話の向こうで直江も黙り込む。
「人の苦しみも、《調伏》してあげられればいいのにな」
『高耶さん……』
直江はすぐに、しかも迷いなく答えた。
『大丈夫ですよ、高耶さん。はる香さんは死者達とは違う。何せ命があるのですから。生きている限り人は前に進めます。悲しみを乗り越える術をきっと手に入れる。彼女の痛みが永遠に続くことは絶対にありません。いつか必ず、癒される日が来る。必ず、報われる日が来る。私はそう信じています』
「直江……」
それはとてもよく解る。けれど、はる香に何もしてやれない自分がものすごく不甲斐なく感じる。
自分は相手が死者で無いと、役に立たないチカラしか持ち合わせていない。
そう言うと、直江は諭すように言った。
『以前にも言いましたが、私達に出来ることは、極力新たな痛みを生まないようにすることです』
「そうだな……」
前に直江が言ったその言葉は、間違いなく高耶の中に息づいている。
だから町田に対してあんな風に言えたのだ。
直江と言葉を交わしていれば、はる香もきっと前を向ける日が来るだろう。言葉の中に誠実さを宿している男なのだ。
と、そこまで考えて、高耶は思わず赤面した。
心の中だけのこととはいえ、一瞬でも考えてしまった事がとても気恥ずかしくて、茶化したくなった。
「当然、お前が事故なんて起こしたらシャレにもなんねーんだからな。常に安全運転を心がけろよ」
偉そうに言った後で、しまったと思った。
事故ったあなたに言われたくない、なんて嫌味な返事が頭に浮かんで、思わず身構えたが、
『そうしたらまた、誘われてくれますか』
囁くように、そう言われた。
電話の向こうの直江の笑顔が眼に浮かんで、思わず高耶はげんなりした。
「だから、野郎相手に何言ってんだよっ!」
そう言うと、らしくないほどの笑い声が電話口から聞こえてきた。
「電話代がもったいねーから切るぞ!」
受話器に向かって怒鳴っていると、美弥の顔が台所から覗く。
「おにいちゃーん、ごはんできたよー」
「わかった、今行く」
まだ笑っている直江にもう一度怒ってから電話を切った。
「随分楽しそうだったね?美弥のこと、何か言ってた?」
「楽しくなんかねーっつーの。美弥、いいからあんな男のことはさっさと忘れなさい」
といいつつ、直江が喜んでもらえれば、と言っていた事を伝えてやる。
満面の笑みでこちらにやってきた美弥の姿をみて、ふっと気がついた。
突然に訪れる別れ。
美弥が突然事故にあう可能性がないとはいいきれないのだ。
もしくは自分が何かで命を落とす可能性もある。
美弥の頭に手をのせると、なあに、とまるで恋人に甘えるように高耶の体に抱きついてきた。
(オレは、案外幸せな人間なのかもしれないな)
決して恵まれた境遇ではないと思っていたが。
高耶も美弥の肩に手を回すと、美弥はうれしそうににこっと笑った。
この笑顔をみると、自分の大切なものが何なのか、再確認できる。
「腹、減ったな」
「うん♪今日はしょうが焼きだよ!」
世界は広い。
高耶は直江達との出会いを通じて、少しずつ自分の世界を広げ始めているが、それでもまだ知らないことが山ほどある。
今更のように気付いた日常の幸福をかみ締めて、暖かな湯気の立ち上る食卓へと向かった。
□ 終わり □
かいこん ほこら
悔恨の小祠